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    「ユーゴー玉」の恐るべしパワー

    • 2012.03.30 Friday
    • 15:55
     
     ポケモンに「きあい玉」というワザがある。
     地下水脈の穴の地下1階で入手できる(?)らしいが、テレビを見ていると、見えない気合いを空中に緑色の玉に丸めて相手にぶつける。

     昨日、何年ぶりかで会った近所の元女子大生がいる。
     当時たしか二十歳の祝いに両親に買ってもらった着物を着て写った晴れ姿を写真で見せてもらった記憶があるが、年齢を聞くと、今度24歳になるという。
     月日が経つのは早い。

     会った当時は、学ぶ目的を見失って大学を休学中で、一度は復帰してみたものの、やはり大学で学ぶことに違和感を感じ、最終的に退学の道を選んだ。
     大学で紹介された心療内科に通ったり、薬を飲んだりしながら心の治療を続けていたが、最近では薬を飲むことなく、月に一度のカウンセリングを行なっているという。

     いままのままの自分ではダメだ。

     そのことは、本人はわかりすぎるほどわかっているのに、自分ではどうすることもできない。
     バイトでもしようかと思っても、果たして自分ができるのだろうかと不安になり、採用窓口に電話するのが億劫でコワいと悩む。

     彼女が来て、子どもたちと一緒にピザを生地から作った。
     プチお料理教室だ。
     発酵なしで作る生地をみんなで粘土のようにこね、生地を丸めて伸ばし、鉄のフライパンで一度焼いてから、トマトソース、玉ねぎ、ソーセージ、チーズをトッピングしていく。
     料理は、作業療法のようなもの。
     なにか手を動かしていると、悩みと少しだけ遠ざかることができる。

     食器の片付けを彼女に頼み、ユーゴーとコウダイはお手伝い。
     彼女の仕事ぶりをユーゴーが、
    「お姉ちゃん、食器を洗うのが上手だね!」
     と褒めた。
     ユーゴーはじつに褒め上手なのだ。

    「ユーゴーは褒めるのがすごく上手いんだよ。人間をよく見ていて、良いところをすぐに褒めてくれるんだ」
     褒め上手なユーゴーをさらにわたしが褒める。
     褒めることが連鎖していくのを見るのは、なかなか気分がいい。
     しかし、その連鎖は彼女のところでストップした。
     相手になかなか目は向かず、いつでも自分のことでいっぱいだからだ。

    「そういう子を育てるには、親がやっぱり褒めて育てないとダメですよね。わたしなんて褒めてあげられる自信がない……。そもそもわたしが子どもをもてるのかどうか……」
     彼女は謙虚というより、自己評価が低く、いつでも自分に自信が持てない。

     その時、ユーゴーの「きあい玉」が飛んだ。
    「人間って、どうして自分を否定するのかなあ?」
     ユーゴーのパワーが「きあい玉」のように緑の炎となって、彼女の胸に突き刺さった。
     言われた彼女はハッとして、ユーゴーを見た。
    「褒められたら、素直に『ありがとう』って言えばいいんだよ」
     ユーゴーの「きあい玉」が彼女の閉ざされたハートを解き放ち、そのあとの言葉がじわじわと彼女を温めていく。

    「ここのままではいけないと思っているんですけど、なにをするのもコワくて」
     彼女はデザートピザを食べながらつぶやいた。
    「どこかの会社に入ろうとか、就職しようとか、ハードルをあまり高くしないで、できるところからやってみたら?」
     わたしが彼女にアドバイスしていると、その様子をブロックで遊びながら聞いていたユーゴーから、また「きあい玉」が飛んできた。

    「バイトすればいいじゃん!」

     言われた彼女はハッとして、ユーゴーを見た。
    「そ、そうだよね」
     その時、自分のぐずぐずに初めて気づいたような表情をした。

     本当はもっといろいろ話したいことがあっただろうに、日が暮れてきたので彼女は「ご迷惑だから」と遠慮して帰って行った。
     彼女は親が転勤族で、いろんなところを点々としてきた影響もあってか、良い子すぎるくらい良い子だ。
     もっとワルになってもいいくらい。

     彼女が帰ってから1時間後、メールがあった。

    「家に帰ってすぐ電話して、バイトの面接を取りつけることができました。あんなに悩んでいたのがウソみたい。ユーゴー君の『バイトすればいいじゃん!』のひと言に救われました」
     という内容だ。

     ユーゴー玉の威力はすごい。
     親も知人も病院の先生も動かせなかった彼女の心を、ユーゴーはいともあっさり動かしてしまったのだ。
     
    「きあい玉」は地下水脈の穴の地下1階で入手できるが、「ユーゴー玉」を手に入れたい方は、ぜひ我が家へ。

     おいしいピザもあります。







    魅力的な声で人を魅了するレッスン

    • 2012.03.29 Thursday
    • 08:52
     
     春休みだから時間がある。
     そんな時こそ、ふだん読めない本を読もう。

     鴻上尚史の『発声と声のレッスン』と『発声と身体のレッスン』を読んだ。
     英語教室のレッスンでは、子どもたちの前で大きな声で話す。
     声が嗄れないようにするには「発声」が大切だ。
     しかも、子どもたちを虜にするような魅力的な声が必要となる。

     魅力的な声って、なんだろう?

     たとえば読み聞かせ。
     読み方によっては、子どもはまったく興味を示さない。
     でも、恥ずかしさを捨て去り、その役になり切ってセリフを読むと、子どもたちの目は断然輝く。
     この違いにいつも驚く。

     著者の鴻上尚史は、早稲田大学在学中に劇団「第三舞台」を結成した劇作家、演出家。
     彼の考える「正しい声」とは、「あなたの感情やイメージがちゃんと表現できる声を手に入れること」だという。
     髪型やメイクを研究するのとおなじように、「こえ」と「からだ」を研究してみよう、という内容の本。
     さまざまな具体的なレッスン法を通じて、自分の声を最大限に表現する方法を身につけていく。

     たとえば2人1組になって、後ろの人が支えてくれるのに身を任せて後ろに倒れるレッスン。自分の体のどこが緊張するのかを「感じる」レッスン。
     とくに吃音のある人は、身体が緊張してなかなか倒れることができないという。
     小3の息子に吃音がある。
     ためしにやってみよう。

     ときどき声が嗄れる。
     声帯が疲れる。
     長男の保護者会に行くと、担任の先生が声を嗄らして大声を出している。
     でも、そのような声は、子どもたちに届かない。

     共鳴やお腹の支え(丹田)を充分に使わずに大きな声を出すのは、声帯に強く息を当てて、音量をかせいでいる声。声帯を無理矢理プッシュして出した声は、固く、耳障りな音となる。

     魅力的な声を手に入れよう。

     今年の課題はこれだ。
     鴻上尚史本ついでに『孤独と不安のレッスン』という本を借りてみた。
     これは、前向きな不安を見つけ、それを楽しみ、共に生きられるようになるための練習帳。内容を見てみると、

    「孤独ってなんだろう?」
    「孤独と不安から、人は一生、逃げられない」
    「世間よりも一人を選ぶということ」
    「あなたは一人でいる時に成長する」
    「世間という名前の神様」
    「絶対の保証なんて存在しない」
    「今ある自分とありたい自分のいい関係を作る」
     などなど。
     面白そうでしょ?

     春休み。
     明日からユーゴーは、1人で新潟に旅に出る。
     孤独を楽しむための第一歩が始まる。

     

    忙しいほうがいいみたい。

    • 2012.03.27 Tuesday
    • 09:47
     
     ある一つの宇宙の法則を見つけた。
    「たくさん遊んだほうが、たくさんの仕事ができる」

     4月から小学3年生になる息子が、春休みを迎えた。
     今日は、まだやり残している文集の作文の仕上げしに朝から学校に行った。

     帰ってくるなり息子が、
    「やったー! これで本当の春休みだ。宿題もないし、バンザーイ」
     と大騒ぎ。
    「仕事なんてもうやめて、遊ぼうよ」
     とわたしを誘う。
    「そうだね。遊ぼっか!」

     じつはわたしも春休み。
     次の英語のレッスンのスタートは4月7日(土)。
     原稿の締め切りも近々にはない。

     やらなければいけないことはたくさんある。
     でも、急ぎでやらなければならない目先の仕事がないと、途端に気が緩む。
     普段は忙しい合間にほうれん草を茹でたり、ジャムを煮たり、高野豆腐を煮たり、出汁をとったりなどするくせに、なにもやる気がしない。
     
     時間って、なんだろう?
     なぜ忙しい時のほうがいろんなことがやれるんだろう?
     時間がある時のほうが、どうしてたくさんのことをやれないんだろう?

     パソコンに向かう母に、
    「仕事なんてもうやめて、遊ぼうよ」
     と息子が絡みついてくる。

     そうだね。
     今日は仕事なんてもうやめて、遊ぼう!

     たくさん遊んだほうが、たくさんの仕事ができる。
     これは法則。
     
     今日は仕事なんてもうやめて、遊ぼう!


     
     

    「がんばれ」

    • 2012.03.26 Monday
    • 10:47
     
     がんばらない生き方、という本が2009年に出版され、ウツの人には「がんばれ」という言葉は禁句だというのが定説になっている。
     でも、わたしは「がんばれ」と応援したい人がいる。
     
     がんばれ、という言葉を使っちゃいけないなら、どんな言葉をかけてあげたらいいんだろう?
     それ以上適切で簡潔な言葉が見つからない。

     楽しんで。
    (違うなー)

     今のままでいいんだよ。
    (違うなー)

     あきらめるな。
    (違うなー)

     Good luck.
    (違うなー)

     すべてが嘘くさい。
     わたしには「がんばれ」がいちばんしっくりくる。

     朝、学校へ歩いて向かっている途中、いままでにユーゴーは2回、ママの声を聞いたという。
     その声というのが、

     ユーゴー、がんばれ。


    「本当だよ。本当に聞こえたんだよ」
     と息子は嬉しそうに言う。
     きっと本当に聞こえたのだろう。
     いままで息子に運動会の時以外「がんばれ」と言った記憶はない。
     人は応援してくれる人がいると安心して生きていける。

     ユーゴー、がんばれ。

     わたしはいつでもおまえを応援している。
     雨の日も、雪の日も、嵐の日も、いつでもおまえを応援している。
     
     わたしが子どもだった頃、失敗したり、忘れ物をしたりすると即座に、親に叱られる、と恐れたものだ。
     親が厳しかったから、しょうがない。
     でも、本当はいつでも親は子どものことを応援しているのだ。
     ただその思いをうまく伝えるのが下手だっただけ。

     朝、玄関先で子どもを送りだすときに、応援の気持ちを伝えたかったはずが、
    「忘れ物ない?」とか、
    「気をつけて」
     といった言葉になる。

     先週土曜日、英語教室の修了式を行なった。
     いままで練習してきた成果を父兄の前で見せる発表もした。

     普段はなかなかまじめにレッスンを受けられない小1の男の子K君が、その日は妙に静かで、いつもはやらない「チック」(目をパチパチと何度もするまばたきをする症状)をしている。
     見てみると、修了式にお父さんが来ている。
     きっと緊張したのだろう。

     症状を誘発するのは、緊張・不安らしいが、全身運動の発散に関心を向けさせたりするのもひとつのやり方だという。
     教室でその男の子はよく机に隠れていたずらしたり、動き回ることが多いが、きっと全身運動の発散を行なっているのだろう。

     K君、がんばれ。

     来年度からはバレエのレッスンに集中するため、継続しない小2の女の子Aちゃんがいる。
     本人は楽しんでレッスンに参加していたし、続けたい気持ちも強かったらしい。
     でも、親から「送迎が負担なのでやめます」とメールがあった。
     ちゃんとAちゃんと話しあったのだろうか?
     これから彼女はどんな人生を歩んで行くんだろう?
     
     Aちゃん、がんばれ。

     応援したい子どもたちがたくさんいる。
     応援したい大人がたくさんいる。

     失敗してもいい。
     忘れ物をしてもいい。

     がんばれ。

     いつでもわたしは応援している。
     がんばることが良いことだとも思わないし、今以上の努力をしろと急き立てるつもりもない。

     だけど、わたしは「がんばれ」と言いたい。
     それは、いつでもきみを応援しているよ、という気持ちだから。

     がんばれ。



     
     

    本日修了式。春休み、何しよう?

    • 2012.03.23 Friday
    • 09:22
     
     今日は、ユーゴーの小学2年生の修了式だ。
     入学してから2年。
     入学式は、青空にサクラが咲いた晴れ晴れしい日だった。

     卒園。
     別れ。
     入学式。
     出会い。

     春はなんという激動の季節なのだろう。
     わたしは、そんな春が好きである。

     今週末は、本年度英語教室の最後のレッスン。
     この1年、走り続けて、ここまで来た。
     よくがんばった。
     家族の応援があってこそ。

     パパもがんばった。
     ユーゴーもがんばった。
     コウダイもがんばった。

     だからお祝いしよう。
     週末は家族4人でパーティだ。

     春休みの計画もそろそろ立てたい。 
     昨日は卒業式のため2年生は休みだったので、パリを舞台にしたスコセッシ監督の映画「ヒューゴの不思議な発明」をユーゴーと2人で観に行った。
     小学2年ともなると、一緒に映画を楽しめるようになる。
     中学生になったら、もう母親と一緒に映画を観に行くのは嫌がるだろう。

     すべてには終わりがある。
     今しかできないことがある。
     だからこそ、今。
     人生を楽しもう。

     

    話をしたい人への呼び水

    • 2012.03.22 Thursday
    • 09:30
     
     みんなモヤモヤを抱えている。

     話してすっきりさせたいのに、話すには、話す「相手」と話す「タイミング」、話す「場」が必要だ。
     そして本当に大切なのは、話したことをちゃんと解釈して、相手が言いたい本心を「翻訳」して言葉にする「さにわ」の存在だ。
     そのすべての条件を満たすのがダンナだった。

    「さにわ」は、審神者と書く。
     古代の神道の祭祀において信託を受け、神意を解釈して伝える者のこと。

     秋田から両親が上京し、父も母も兄の離婚ついて、本人にはいっさい触れなかった。
     みんなモヤモヤを抱えている。

     兄は手先の器用な父の腕を見込んで、お風呂場の棚を作る材料をホームセンターから買ってきた。
     父と息子が一緒に寸法を測ったり、木を切ったり、ネジを埋め込んだりして、我が家の風呂場の入り口に、見事なヒノキ造りの棚が完成した。
     父と息子の合作。

     わたしと母は小豆を炊き、もち米を蒸して、春分の日のおはぎを作った。
     母と娘の合作。

     みんなモヤモヤを抱えている。
     モヤモヤを抱えながら、一緒にみんなで美味しいご飯を食べ、お酒を飲み、孫たちの様子を話し、美味しい味噌の作り方の話をし、本題には触れずにそのまわりをぐるぐる回った。

     さて。
     明日は秋田に帰るという晩。
     兄は一旦、自分の家に戻り、わたしが子どもたちを寝かしつけていた。
     そのとき居間に両親とダンナの3人が残った。
     両親が話す「相手」「タイミング」「場」「さにわ」のすべてがそろった。

    「本当にいま話したいことはなんですか?」
     とダンナは言った。
    「息子に、なぜ離婚することになったのか。これからどうするつもりなのか。それをちゃんと聞きたい」
     と両親は涙を流して言ったという。

    「だったら、聞いてみましょうよ」
    「でも、口べただし、子育てはわたしに任せっきりだったし、いままで父親として息子にちゃんとした話をしたことがない」
     と母が言った。
     父は目を潤ませた。
    「上手に話す必要はないんです。うまく話せないなら話せないなりに、正直に気持ちを伝えればいいんです。思いは伝わりますよ」

     いままで両親は、18歳で家を出た息子とちゃんと向きあってこなかった。
     避けてきたのだ。
    「でも、もう避けられませんよ。いま避けて通っても、同じような問題がさらに大きくなって、いずれまた必ず訪れるんです。世の中はそういうしくみになっている。だったら、いま向きあいましょうよ」
     ダンナはまるで自分自身の問題を避けて通ってきた自分を勇気づけるように両親に言った。

     翌日、東京駅に向けて両親と兄は我が家を出発した。
     東京駅でお茶を飲みながら、どうやら少しだけ話ができたようだ。

    「いま新幹線に乗ったよ。いろいろお世話をかけました。ありがとう」
     兄から電話があった。
    「いま秋田に着いたよ。いろいろお世話をかけたね。ありがとう」
     両親から電話があった。
     なんだかみんな、くぐもりがとれて、モヤモヤがすっきりしたような声をしている。

     離婚。
     娘との別れ。

     きっとこのつらい経験は兄を成長させることだろう。
     そうあってほしい。
     もし、両親と兄とのあいだに長年あったわだかまりがこれで消えていくなら、離婚も悪いことでもなかったのかもしれない。
     そうあってほしい。

     つらい経験をどう生かすか。
     つらい経験から何を学ぶか。

     いずれにしても、どんなときでも話す「相手」と話す「タイミング」、話す「場」、話したことをちゃんと解釈して、相手が言いたい本心を「翻訳」して言葉にする「さにわ」が必要だ。
     わたしにはダンナがいるから大丈夫だ。

     
     

    見ざる聞かざる言わざるの新解釈

    • 2012.03.16 Friday
    • 10:26
     
     兄の離婚問題でしばらく頭を悩ませていた。
     しかし、その答えがついに出た!

     父からは「良きアドバイスをお願いします」という手紙はくるは、兄からは「渦中なのでそっとしておいてほしい」というメールはくるはで、どう関わっていいのかわからなかった。
     両親が今週末に上京してくるが、泊まるのは我が家。
     兄を我が家に呼び、我が家を舞台に家族が顔を合わせる。
     さて、どんなアドバイスができるというのだろう。

     兄にはこれからの人生で幸せになってほしいと願う。
     ついつい、離婚した原因は兄にもあるのだから、その原因を深く見つめて新しい人生を歩んでほしい、などと言いたくなる。
     でも、血がつながっている妹にそんなことを言われても耳など貸すわけがない。

     なるほどと思うどころか、うるせーおまえになんか言われたくもない、というのが正直な気持ちだろう。
     だったらどんな話をしたらいいのか?

     わたしはバツイチだ。
     だから離婚の痛みはよくわかっているつもりだ。
     わたしの離婚騒動の時にもやっぱり両親が上京し、兄があれこれとわたしの失点をえぐり出して責め立てた。
     あのやり方はまずい。
     離婚によっていちばん傷ついているのは本人なのだ。

     兄はあの時のことを覚えているだろうか。
     やり方がまずかったな、という気持ちはあるだろうか。

     だったらどんなやり方がいいのか?

     考えに考えた末に出た答えは、何も語らず、何も責めず、ただ美味しいご飯を家族みんながそろって一緒に食べること。
     それだけでいいのではないだろうか。
     バツイチになろうが、わたしの場合はいま素晴らしい伴侶と出会い、家庭を築き、幸せに過ごしている。
     そんな様子をただ感じてもらうだけで充分なのではないだろうか。

     そこで女性の出番だ。
     母が秋田から兄の大好きなものをたくさん送ってきた。
     ナスの漬け物、すじこ、秋田特有の「ぼだっこ」と言われる塩鮭などなど。
     炊きたての白いご飯でこれらのおかずを食べたらどんなに幸せになれるだろう。
     わたしはだまってご飯を炊き、手造り味噌で味噌汁を作り、美味しい食卓を演出する。

     数日前のブログ「焦点をずらせば真実が見えてくる」で書いた疑問、
     
     見ざる聞かざる言わざる。 
     見ないほうが見える?
     聞こうとしないほうが聞こえる?
     言わないほうが言える?

     の答えが早くも出たことになる。
     神様はこんなにも早くわたしに答えを与え、気づきを与えてくれた。

     見ざる聞かざる言わざる。

     基本には、「Hear no evil, see no evil, speak no evil」だが、わたしの解釈は、問題から目を背けることでも、知らんぷりをすることでもなく、他人に余計なおせっかいは言わず、自分の問題についても頭に溢れてくる悩み事を神経質に耳を貸さず、いちいち心を煩わせることなく、大きな心で物事を見なさいということ。

     いよいよ明日、みんなそろっての晩餐が行なわれる。
     楽しい晩餐を迎えられるよう、できる限りの演出をしようと思っている。
     




     
     

    当事者研究を始めました。

    • 2012.03.14 Wednesday
    • 10:21
     
     わたしの兄が離婚した。

     嫁から実家の両親宛に手紙が届き、兄の悪かった点と別れるに至った理由などが書かれていた。
     手紙のコピーを父がわたし宛に送ってきて、
    「アドバイスをお願いします」
     とひと言添えてあった。

     離婚する理由はいろいろあるだろうが、どちらも悪い。
     どちらか一方だけが悪いわけではない。
     兄は別れることになった原因と向きあい、自己擁護せず、悪かった部分は相手に謝り、自分自身でその部分を認めなければ、次の新たな人生でも同じ過ちを犯してしまうような気がしてならない。

     電話してみると、両親は泣きながらもさかんに兄をかばっている。
     かぱうだけでは問題は解決しない。
     では、どうしたら解決するのか。
     どんなアドバイスができるのだろう。

     両親は我が家に滞在することになり、兄と両親が向きあって話しあう舞台が、なぜか我が家となった。
     なぜ我が家が舞台なのだろう。

     昨日、言語聴覚士の先生に面白い話を聞いた。
     それは当事者研究。

     当事者研究とは、ウィキペディアによると、

    「統合失調症の当事者の多くは、症状に対して受け身であるだけではなく、すでにさまざまな自己対処を行なっていると理解される。
     引きこもる、食べ過ぎる、自分を傷つけてしまう、大声を出すなどの行動も、当事者の視点に立てば、何らかの理由によってそういう対処をせざるを得ない状況と考えることができ、当事者研究ではそうしたさまざまな自分の助け方(自助)に焦点を当てて、より良い自助ができるように、当事者が主体的に考え、実践していくことが核となっている」

     とある。
     やり方は、苦難や苦労の「成り立ち」を理解し、そのテーマや当事者のニーズにせまっていくという手法。

     苦難や苦労にせまるより、目を背けたい、というのが本音だろう。
     だからせまるためには、支援者から定期的なフィードバックがもらえるような環境が必要らしい。

     兄は統合失調症ではないが、近いものを抱えているかもしれない。
     妻の手紙によれば、借金を作り、家にお金を入れていなかったらしい。
     何かしらの自己対処が借金というカタチで噴出したのだ。

     うちのダンナは適切で冷静な物の見方ができるので、「支援者からフィードバックがもらえるような環境」というのが、つまり我が家であり、支援者はわたしとダンナということになるのかもしれない。

     支援なんてできそうもないが、できるかぎりの応援はしたいと思っている。
     問題は、両親と兄が、当事者研究を進めていこうとするかどうか。

     逃げていても、同じことを繰り返す。
     人生を新たに始めることはできない。

     自分の問題にいずれは目を向けざるを得ない日が必ずやってくる。
     兄にとって、それが今回の離婚かもしれない。

     さて、向きあえるか?
     逃げてはいけません。
     あるいは、逃げている自分すらも受け入れるのが当事者研究における正しいやり方かもしれない。
    「受け身」ではなく「主体的」に考える。
      
     兄には是非ともこれを機会に幸福な人生を手に入れてもらいたいと思っている。
     幸せになれるかなれないか。
     それは「主体」にかかっている。







     




    焦点をずらせば真実が見えてくる?

    • 2012.03.13 Tuesday
    • 09:00
     
    「だいぶ物事をあれこれ考えなくなったが、
     考えると疲れる。
     どうしたら考えなくなるのだろう。
     きみが羨ましいよ」

     と朝起きてきていきなりダンナがつぶやいた。
     ダンナは頭がいい。
     地元の新潟では県で1番の成績をとるほどの頭脳を持つ。

    「あっちの世界も見えるし、
     こっちの世界も見えるし、
     二重生活は疲れるよ(苦笑)」

     あっちの世界というのは、四次元世界というか幽界というか、うまく説明できないが、昔はしょっちゅうオバケを見ていたらしい。
     虫の知らせのようなものを敏感に読みとる能力がある。
     名刺占いをする時なども、「あっちの世界」とつながりながら読みとるらしい。

     その後、長男のユーゴーが元気に起きてきた。
    「おっはよっ!」
     いかにも朝から元気である。
     いきなり冷蔵庫に貼っている給食献立表を指さしながら、
    「これを見ていると、ボワンボワンして、どんどん紙が広がって行くんだよね」
     と言った。
    「あぁ、それは焦点を合わさないで見ているからだよ」
     と答えたパパがハッとした。

    「これが答えだね!」

     そう。
     あっちの世界を読みとる時は焦点を合わせない。
     焦点を合わせようとすると頭を使う。
     使うのは「こころ」
     感じるのだ。

     何か物事を見ようとする時、じっとその対象物を見ると、逆に見えないことがある。
     見ようとすればするほど、聞こうとすればするほど、どんどん焦点がボヤけてくる。
     なぜなんだろう?

     見ざる聞かざる言わざる

     もしかしたら、ここに1つの真実がある。
     見ないほうが見える。
     聞かないほうが聞こえる。
     
     ということは、言わないほうが言えるのか?
     真理を探究する旅はまだまだ続きそうです。





     

    まちがった毒だし法

    • 2012.03.12 Monday
    • 12:58
     
     自分の気持ちをコントロールするのは難しい。
     気持ちをコントロールできないと、夜もよく眠れない。
     気持ちをコントロールできないと、食欲もコントロールできない。

     先日の「毒だし」ブログで

     出すには、やはり痛みもともなう。
     でも、出したいなら、ラクになりたいなら、健全であるためには、出さなければならない。
     出す方法は、2つしかない。
     1 だれかに話す。
     2 書く。

     と書いた後、自分の父親を思い出した。
     父は非常に寡黙で、声を荒げたことがない。
     仕事のストレスを家庭に持ち込んだのを一度も見たことがない。
     どうやって毒だしをしていたのだろう。
     もしかしたら、だれかに話すのでも、書くことでもない毒だし方法があるのかもしれない。

     たとえば食べること。
     わたしは社会人になってすぐ、過食症になった。
     過食症は心の病気である。
     食パン1斤なんてあたりまえ。
     普通では考えられない量を食べる。

     思いっきり食べた後、思いっきり吐く。
     吐くとスッキリする。
     そのあと、嫌悪感におちいる。
     もうやめよう。
     でも、ストレスは吐くことで解消されないので、また過食に走る。
     いろんな過激なダイエットにも挑戦したりしながら、結局続かず過食になる。
     という悪循環。

     ある日、こんなことはやめようと決意した。
     社会に慣れ、心のバランスを取り戻しつつあった時期かもしれない。
     その時わたしを救ったのが豆腐。
     低カロリーでタンパク質も豊富なので、「今日は吐くまい」と決めて、お腹いっぱい食べる。
     豆腐のお陰で、いつのまにか過食は治った。
     
     それ以来、いちども過食症をぶり返したことはない。
     ストレス解消するには、食べることはとても良い気分転換だ。
     副交換神経が刺激されるので、安らぎを一時的に手にすることができる。
     でも、健全ではない。

     買い物症候群も自分で自分をコントロールできない心の病い。
     副交換神経が刺激されるので、安らぎを一時的に手にすることができるが、結局心はひとつも満たされない。

     どうやったら満たされるのだろう?
     健全な方法は、やはり「書くこと」ではないだろうか。
     自分と向きあうしかない。
     辛い作業だが、書くことでいつのまには心のバランスが正常化する。

     自分と向きあおう。
     意外にそんなに難しい作業ではないことに気づくはずです。



     

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